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株式会社 下園薩男商店 常務取締役 下園正博

阿久根産ウルメイワシの丸干しを、世界の国々の味をイメージしたオイル漬けにし、干物の楽しみ方の可能性を劇的に広げた「旅する丸干し」。ストーリーあるコンセプトや、若い人の心も捉えるおしゃれなパッケージといったブランディング手法も面白く、2013年には鹿児島県特産品コンクールで最高賞の県知事賞を、2014年には、農林水産大臣賞最高位の天皇杯を受賞しました。その産みの親である下園正博さんに、開発に至った経緯や背景、ウルメイワシの採れる地元・鹿児島県阿久根市の魅力などをお話しいただきました。

QUESTION01

今話題の「旅する丸干し」。日本の伝統食である干物をオイル漬けで洋風に仕上げた目新しい商品ですが、実際に食べてみると丸干し本来の美味しさに気づかされ、開発者の丸干しを大事に思う気持ちを感じます。干物屋で生まれ育った正博さんにとって、小さいころから丸干しはどのようなかたちで日常のなかにあったのでしょうか?

実家が干物屋であることは、小さい頃はそんなに意識していませんでした。幼稚園の頃までは工場に行くこともあり、工場のおばちゃんたちに「あら、来たねぇ」と声をかけられたり、走り回って、祖父(創業者・下園薩男氏)に怒られたりということもあったみたいです。実家なので、もちろんそういう身近なものではありましたが、中学・高時生時代はそんなに工場に来た記憶はなく、二代目である父親の思い出も、実際に仕事をする背中を見ていたというよりは、日曜も工場に行っていたので「毎日いないな」というくらいの感覚でした。

QUESTION02

食卓にもよく干物が上っていたのですか?

新物が上がったときに試食をさせられることはありました。中学・高校の頃になると食べた記憶はあまりなくて。そんなに干物は好きじゃなかったですね。肉料理のほうがよっぽど好きだったと思います。肉がないと食事じゃないという感じで、自分だけ別メニューだったりしていました。

QUESTION03

小さいころから3代目として店を継ぐという意識はあったのでしょうか?

全くなかったです。高校の頃ですらなくて、継ごうと思ったのは大学2年生の時でした。 昔からゲーム好きで、高校時代にはIT業界が伸びてきていたこともあり、自分もすごくパソコンに興味を持っていました。IT関係の仕事をやりたいと思っていたんです。大学受験の時期を迎え、福岡にある情報系の大学を受けるという友達に便乗して自分も受験。運よく合格することができました。 けれど父親はその大学に行くことに反対していました。浪人してでもいい大学に行けと。でも自分は勉強が大嫌いで、今までろくに勉強していなかったのだから、勉強ばかりの浪人生活ができるわけがないとも思っていました。結局父親の反対を押し切って希望の大学へ行ったので、入学して最初の3~4か月くらいは、父親には口もきいてもらえなかったですね。自分が帰省した時も目も合わせてくれない感じでした。それがかえって「自分が決めたことだから、本当に勉強してがんばらないといけない」という気持ちにさせてくれました。だから大学に入ってからは結構勉強しましたね。成績表が実家に送られていたので、1年くらいしたら父親も認めてくれました。

QUESTION04

ゆくゆくはゲーム開発の仕事等を考えていたのですか?

ゲームもですが、それよりも自分で会社を起こして独立したいなと。高校の時からサラリーマンをしようという考えは全くなかったです。親が自営業だったことも影響していると思います。ですが父親には「公務員になれ、後は継ぐな」と言われていました。父親の気持ちとしては、水産加工業界で続けていくことの厳しさを、息子には背負わせたくないという気持ちがあったんだと思います。

QUESTION05

実家を継ごうという気持ちになったきっかけは何だったのでしょうか?

大学1年の頃にはすでに、「卒業後はIT系の会社を起こして億万長者になりたい。儲けたお金を株や土地に投資して、30歳には働くのをやめよう」という夢を抱いていました。そんななか、1年次にけっこう単位を取得していたので、2年生になると平日でも一日中休みという日があって、そんな日がすごく暇だったんです。いざ時間が空くと、旅行に行けるくらいのお金を持っていたとしても、友達とタイミングが合わなければ家でぼーっとしている。そんな状況に気づいて「なんか全然楽しくないな」と。そして、もしかすると億万長者の夢を果たしたときも、お金と時間はあるけど何もしていない今と同じ状態なんじゃないかなと気づいたんです。それだと将来が楽しくなくなってしまう。自分がいちばん楽しくなるにはどうしたらいいかと考えた時、自分にしかできないことをするのがいちばんいいだろうなと思いました。そうなると、やはり実家が干物屋をやっていて、父親が自らの代で終わらせたいと言っているのももったいなく感じていましたし、しかも自分は長男なので、継ぐのが使命のように感じて、それが自分にしかできないことなのかもしれないとも思い、ゆくゆくは継ごうと考えるようになりました。

QUESTION06

卒業後は、IT企業、そして水産関係の商社へと進まれていますね。

まずは自分のやりたい仕事を2年間だけやろうと思い、IT関連企業に就職しました。企業側にも「自分は2年で辞めます」と伝えたうえで採用していただけました。ホームページを作る会社で、職種はウェブディレクター。企画立案やスケジュール管理、予算管理などが主な仕事でした。ITバブルの頃だったので仕事が有り余るほどあって、入社初日から仕事を与えられ帰りも遅く、かなりハードな日々を送っていました。2年経ち、実家を継ぐことを見据えて、今度は東京・築地にある水産関係の商社に営業として入りました。IT企業時代のハードな日々を乗り越えてきたので、営業なんて楽勝だろうと最初は思っていました。けれど実際は全くうまくいかなかったですね。お客さんにIT企業時代に作っていたようなプレゼンの資料を持って行ったりするのですが、全然目を通してくれない。なかなか売り上げが立たずに、「どうしてなんだろう」と悩むのが3年くらい続きました。

2~3年経った頃、量販店の総菜部門を担当することになり、お寿司のメニュー開発を担当することになりました。プレゼン資料を提出したらすごく好評で、それがすごく大ヒットして売れたんですよ。その経験から、自分の苦手なところを攻めるのではなく、好きなことや得意分野に営業するほうが効率がいいことに気づいて、そこからうまくいくようになりましたね。本当は2年か3年で帰ろうと思っていたのですが、営業というものが全く掴めず、そこでは結局5年間修業したことになります。

QUESTION07

やはり何かを得てから戻りたいという想いがあったのですか?

ある程度、水産業界ってこうなんだなとか、こうすればうまくいくなとか、そういうことを学ぶための修行だったので、やはりそれをちゃんと掴んでから帰りたいという気持ちはあったと思います。正直、最初の1~2年は何度もIT業界に戻りたいと思っていましたね。 でも、本当によかったなと思うのは、その修行先の会社が、月に1度は営業マンも売り場に立たせるという方針だったこと。自分も売り場に立って、丸干しやみりん干しなどを売る機会があったのですが、売り場を見ているとほとんどの人が干物には目もくれず素通りの状態。高齢の方がたまに買うくらいで、若い買い物客はまずいませんでした。何とかしなければ、20年後には全然売れなくなるなという危機感を感じて、どうしたらいいのか東京にいるときから思案していました。

QUESTION08

鹿児島に戻られ、最初はどんなことに取り組んだのですか?

帰ってきてから取り組んだのは、丸干しに興味を持っていない若い人に対して、いかに買ってもらうかということ。最初はパッケージをおしゃれにしたりとか、キャラクター入りのものを作ったりして、バイヤーの評価もすごくよかった。評判が広がって販売に至るのですが、売り場に並ぶとこれが全く売れない。見に行ってみると、商品は並べてあっても、やはりそこには70代や80代のお客さんしか通ってなくて。だから若い人向けのパッケージは逆効果になってしまっていました。若い人たちの目に入るには、どういったところで販売すればいいのかを考えた時、それは若い人が手に取りやすいような食のセレクトショップであったり、雑貨屋さんであったり、食品も取り扱っているようなおしゃれなお店といったところだろうなと。それで、そういった店で置いてもらえるような商品づくりをしようと考えるようになりました。

QUESTION09

丸干しをオイル漬けにするというのは、どのような発想から得たのですか?

干物自体が和のイメージが強いので、洋風にしたら面白いのではないかと。丸干しを洋風にと考えたらオイルサーディンしか頭に浮かばず、でも「丸干しのオイルサーディン」って面白そうだなと。作り方を調べると色んな方法があったので、何パターンかを自分なりにアレンジして、試しに作ってみたんです。そしたら結構おいしくて。バジル風味やカレー風味など3種類ほど作り、とある販売会に出してみたところ評判も良かった。これまでの干物の販売とは売り上げも全然違いました。購買層も全く違って、20代や30代の主婦の方が「なんですかこれ?」と物珍しそうに買いに来られました。

QUESTION10

そこから本格的に商品化を?

そうですね。鹿児島県が、郷中塾という若手経営者・後継者向けの経営セミナーをやっていて、その2期生として参加した際、自社の商品やサービスを実践的にブラッシュアップする講座がありました。ちょうどその丸干しのオイルサーディンを作っていたときだったので、これはいいなと。そこで知り合ったプランナーの方と一緒に商品化していったのが「旅する丸干し」のスタートでした。

QUESTION11

「旅する丸干し」には、「干物屋の青年が、ある日不思議な夢を見ました」というストーリーがありますね。

それはプランナーさんの提案によるものでした。プランナーとフードコーディネーター、自分の3人で、いろいろと案をだしているとき、フードコーディネーターの方が「国をイメージした味にしましょうか」と。それすごくいいですねとなって、まず20か国ぐらいの味を考えて下さいました。その中で、自分たちがやりたいものとか、食材的に使いやすいものなどを考慮して絞り込んだのが、現在販売されている4種類です。そうやって決まっていくうちに「まるで日本の丸干しが、世界を旅しているみたいだね」と、フードコーディネーターの方が言われて、そしたらプランナーの方も「旅する丸干し、いいじゃない」と。その話し合いのなかでそのままネーミングが決まり、ストーリーができていきました。

QUESTION12

発売後、鹿児島県の特産品コンクールで最高賞の県知事賞を受賞されました。

県の特産品コンクールは、鹿児島に帰ってきて間もないころ一度出品していて落選した経験があり、いつかは絶対に賞を獲ってやりたいという想いがありました。それから2年後にこの「旅する丸干し」で出品。最高賞を受賞しリベンジを果たしました。それをきっかけにマスコミにも広く取り上げていただいて、問合せも増えるようになり、最近では鹿児島の老舗茶舗とのコラボや、焼酎試飲会で普通の丸干しがふるまわれるようになったりと、他業種とのつながりも増え、丸干しを知っていただく機会も広がってきました。今までのようにただ「丸干しどうですか」じゃ響かなかったものが、「旅する丸干し」によって丸干しの魅力に気づいてもらえて、じゃあ本当の丸干しはどんな味なんだろうと興味を持たれ「丸干しって美味しいじゃない!」と言ってもらえるようなこともよくあります。「旅する丸干し」は、そこに気づいてもらうための商品として、狙い通りの役割を果たしてくれていると思います。

QUESTION13

一般的なオイルサーディンやアンチョビとは似て非なる「旅する丸干し」の魅力。ご自身ではどんなところだと感じていらっしゃいますか?

この商品のいちばんの魅力は、やはり創業昭和14年の老舗干物屋が作った、新しい干物商品であるということ。自社の持つ歴史や、丸干しが作られる風土は、この商品の根幹でありいちばんの魅力だと思います。
食べる感覚的な魅力で言えば、まず朝獲れのウルメイワシの丸干しを使っているので、苦みが少なく食べやすいこと。干し上げて作っている干物なので香ばしさがあり、生魚を使ったオイルサーディンやアンチョビと比べると生臭さがない。レトルト加工もしておらず、乾燥させ焼いて水分を飛ばすことで保存性を高めているので、レトルト特有の匂いもなく、丸干し本来の美味しさを楽しめることだと思います。

QUESTION14

おすすめの食べ方を教えてください。

ビールやワインとも相性が良く、パスタやサラダにも使えます。4種類の味があり、例えばドライトマト&ガーリック味の「南イタリア風」はパスタやカナッペに、オリーブ&ハーブ味の「プロヴァンス風」ならニース風サラダに、ボンタンエッセンスを加えた「阿久根プレーン」は梅茶漬けと合わせてなど、色んな楽しみ方ができます。4種類のなかでも自分のお気に入りは、ミックスビーンズ&カレー味の「マドラス風」。刻んでマヨネーズと混ぜ、それをふかしたじゃがいもに塗って食べるのが好きですね。

QUESTION15

鹿児島の好きなところを教えてください。

地元に帰ってきて、海のきれいさを再認識しています。それまではあって当たり前のものだったので良さに気づいてなかったのですが、一度東京に出て帰って来ると、阿久根の海ってこんなにきれいだったんだなと。それからはシュノーケリングなどをよく楽しむようになりました。けれどこんなきれいな海があるのに、地元は海を楽しむ環境が整っていないとも感じています。今、そんな地元の魅力に気づいてもらえるような取り組みもやっていきたくて、来年、阿久根市内にお店をオープンする計画を立てています。
3階建てのビルに販売所やカフェを備える計画で、旅の拠点、あるいは阿久根と他の地域との交流拠点にできればと。現在、販売所に並べる商品も開発中です。地元には海や丸干し以外にもまだまだたくさんの魅力があるので、それを発信していきたいと考えています。

QUESTION16

鹿児島ならではの好きなたべものは?

祖母が作ってくれていた鯛茶漬けですね。今は母がその味を受け継いでいます。阿久根は昔から鯛がよく取れる土地柄。知り合いの漁師に大きな鯛を頂けることもあって、それを祖母が捌き、刺身で食べるというよりは、みりんや甘い鹿児島の醤油とごまを合わせたタレに1~2日漬けこみ、それをごはんの上に載せて茶漬けで食べるんです。それもいつか商品化したいですね。

阿久根産ウルメイワシの丸干しを、世界の国々の味をイメージしたオイル漬けにし、干物の楽しみ方の可能性を劇的に広げた「旅する丸干し」。ストーリーあるコンセプトや、若い人の心も捉えるおしゃれなパッケージといったブランディング手法も面白く、2013年には鹿児島県特産品コンクールで最高賞の県知事賞を、2014年には、農林水産大臣賞最高位の天皇杯を受賞しました。その産みの親である下園正博さんに、開発に至った経緯や背景、ウルメイワシの採れる地元・鹿児島県阿久根市の魅力などをお話しいただきました。

QUESTION01

今話題の「旅する丸干し」。日本の伝統食である干物をオイル漬けで洋風に仕上げた目新しい商品ですが、実際に食べてみると丸干し本来の美味しさに気づかされ、開発者の丸干しを大事に思う気持ちを感じます。干物屋で生まれ育った正博さんにとって、小さいころから丸干しはどのようなかたちで日常のなかにあったのでしょうか?

実家が干物屋であることは、小さい頃はそんなに意識していませんでした。幼稚園の頃までは工場に行くこともあり、工場のおばちゃんたちに「あら、来たねぇ」と声をかけられたり、走り回って、祖父(創業者・下園薩男氏)に怒られたりということもあったみたいです。実家なので、もちろんそういう身近なものではありましたが、中学・高時生時代はそんなに工場に来た記憶はなく、二代目である父親の思い出も、実際に仕事をする背中を見ていたというよりは、日曜も工場に行っていたので「毎日いないな」というくらいの感覚でした。

QUESTION02

食卓にもよく干物が上っていたのですか?

新物が上がったときに試食をさせられることはありました。中学・高校の頃になると食べた記憶はあまりなくて。そんなに干物は好きじゃなかったですね。肉料理のほうがよっぽど好きだったと思います。肉がないと食事じゃないという感じで、自分だけ別メニューだったりしていました。

QUESTION03

小さいころから3代目として店を継ぐという意識はあったのでしょうか?

全くなかったです。高校の頃ですらなくて、継ごうと思ったのは大学2年生の時でした。 昔からゲーム好きで、高校時代にはIT業界が伸びてきていたこともあり、自分もすごくパソコンに興味を持っていました。IT関係の仕事をやりたいと思っていたんです。大学受験の時期を迎え、福岡にある情報系の大学を受けるという友達に便乗して自分も受験。運よく合格することができました。 けれど父親はその大学に行くことに反対していました。浪人してでもいい大学に行けと。でも自分は勉強が大嫌いで、今までろくに勉強していなかったのだから、勉強ばかりの浪人生活ができるわけがないとも思っていました。結局父親の反対を押し切って希望の大学へ行ったので、入学して最初の3~4か月くらいは、父親には口もきいてもらえなかったですね。自分が帰省した時も目も合わせてくれない感じでした。それがかえって「自分が決めたことだから、本当に勉強してがんばらないといけない」という気持ちにさせてくれました。だから大学に入ってからは結構勉強しましたね。成績表が実家に送られていたので、1年くらいしたら父親も認めてくれました。

QUESTION04

ゆくゆくはゲーム開発の仕事等を考えていたのですか?

ゲームもですが、それよりも自分で会社を起こして独立したいなと。高校の時からサラリーマンをしようという考えは全くなかったです。親が自営業だったことも影響していると思います。ですが父親には「公務員になれ、後は継ぐな」と言われていました。父親の気持ちとしては、水産加工業界で続けていくことの厳しさを、息子には背負わせたくないという気持ちがあったんだと思います。

QUESTION05

実家を継ごうという気持ちになったきっかけは何だったのでしょうか?

大学1年の頃にはすでに、「卒業後はIT系の会社を起こして億万長者になりたい。儲けたお金を株や土地に投資して、30歳には働くのをやめよう」という夢を抱いていました。そんななか、1年次にけっこう単位を取得していたので、2年生になると平日でも一日中休みという日があって、そんな日がすごく暇だったんです。いざ時間が空くと、旅行に行けるくらいのお金を持っていたとしても、友達とタイミングが合わなければ家でぼーっとしている。そんな状況に気づいて「なんか全然楽しくないな」と。そして、もしかすると億万長者の夢を果たしたときも、お金と時間はあるけど何もしていない今と同じ状態なんじゃないかなと気づいたんです。それだと将来が楽しくなくなってしまう。自分がいちばん楽しくなるにはどうしたらいいかと考えた時、自分にしかできないことをするのがいちばんいいだろうなと思いました。そうなると、やはり実家が干物屋をやっていて、父親が自らの代で終わらせたいと言っているのももったいなく感じていましたし、しかも自分は長男なので、継ぐのが使命のように感じて、それが自分にしかできないことなのかもしれないとも思い、ゆくゆくは継ごうと考えるようになりました。

QUESTION06

卒業後は、IT企業、そして水産関係の商社へと進まれていますね。

まずは自分のやりたい仕事を2年間だけやろうと思い、IT関連企業に就職しました。企業側にも「自分は2年で辞めます」と伝えたうえで採用していただけました。ホームページを作る会社で、職種はウェブディレクター。企画立案やスケジュール管理、予算管理などが主な仕事でした。ITバブルの頃だったので仕事が有り余るほどあって、入社初日から仕事を与えられ帰りも遅く、かなりハードな日々を送っていました。2年経ち、実家を継ぐことを見据えて、今度は東京・築地にある水産関係の商社に営業として入りました。IT企業時代のハードな日々を乗り越えてきたので、営業なんて楽勝だろうと最初は思っていました。けれど実際は全くうまくいかなかったですね。お客さんにIT企業時代に作っていたようなプレゼンの資料を持って行ったりするのですが、全然目を通してくれない。なかなか売り上げが立たずに、「どうしてなんだろう」と悩むのが3年くらい続きました。

2~3年経った頃、量販店の総菜部門を担当することになり、お寿司のメニュー開発を担当することになりました。プレゼン資料を提出したらすごく好評で、それがすごく大ヒットして売れたんですよ。その経験から、自分の苦手なところを攻めるのではなく、好きなことや得意分野に営業するほうが効率がいいことに気づいて、そこからうまくいくようになりましたね。本当は2年か3年で帰ろうと思っていたのですが、営業というものが全く掴めず、そこでは結局5年間修業したことになります。

QUESTION07

やはり何かを得てから戻りたいという想いがあったのですか?

ある程度、水産業界ってこうなんだなとか、こうすればうまくいくなとか、そういうことを学ぶための修行だったので、やはりそれをちゃんと掴んでから帰りたいという気持ちはあったと思います。正直、最初の1~2年は何度もIT業界に戻りたいと思っていましたね。 でも、本当によかったなと思うのは、その修行先の会社が、月に1度は営業マンも売り場に立たせるという方針だったこと。自分も売り場に立って、丸干しやみりん干しなどを売る機会があったのですが、売り場を見ているとほとんどの人が干物には目もくれず素通りの状態。高齢の方がたまに買うくらいで、若い買い物客はまずいませんでした。何とかしなければ、20年後には全然売れなくなるなという危機感を感じて、どうしたらいいのか東京にいるときから思案していました。

QUESTION08

鹿児島に戻られ、最初はどんなことに取り組んだのですか?

帰ってきてから取り組んだのは、丸干しに興味を持っていない若い人に対して、いかに買ってもらうかということ。最初はパッケージをおしゃれにしたりとか、キャラクター入りのものを作ったりして、バイヤーの評価もすごくよかった。評判が広がって販売に至るのですが、売り場に並ぶとこれが全く売れない。見に行ってみると、商品は並べてあっても、やはりそこには70代や80代のお客さんしか通ってなくて。だから若い人向けのパッケージは逆効果になってしまっていました。若い人たちの目に入るには、どういったところで販売すればいいのかを考えた時、それは若い人が手に取りやすいような食のセレクトショップであったり、雑貨屋さんであったり、食品も取り扱っているようなおしゃれなお店といったところだろうなと。それで、そういった店で置いてもらえるような商品づくりをしようと考えるようになりました。

QUESTION09

丸干しをオイル漬けにするというのは、どのような発想から得たのですか?

干物自体が和のイメージが強いので、洋風にしたら面白いのではないかと。丸干しを洋風にと考えたらオイルサーディンしか頭に浮かばず、でも「丸干しのオイルサーディン」って面白そうだなと。作り方を調べると色んな方法があったので、何パターンかを自分なりにアレンジして、試しに作ってみたんです。そしたら結構おいしくて。バジル風味やカレー風味など3種類ほど作り、とある販売会に出してみたところ評判も良かった。これまでの干物の販売とは売り上げも全然違いました。購買層も全く違って、20代や30代の主婦の方が「なんですかこれ?」と物珍しそうに買いに来られました。

QUESTION10

そこから本格的に商品化を?

そうですね。鹿児島県が、郷中塾という若手経営者・後継者向けの経営セミナーをやっていて、その2期生として参加した際、自社の商品やサービスを実践的にブラッシュアップする講座がありました。ちょうどその丸干しのオイルサーディンを作っていたときだったので、これはいいなと。そこで知り合ったプランナーの方と一緒に商品化していったのが「旅する丸干し」のスタートでした。

QUESTION11

「旅する丸干し」には、「干物屋の青年が、ある日不思議な夢を見ました」というストーリーがありますね。

それはプランナーさんの提案によるものでした。プランナーとフードコーディネーター、自分の3人で、いろいろと案をだしているとき、フードコーディネーターの方が「国をイメージした味にしましょうか」と。それすごくいいですねとなって、まず20か国ぐらいの味を考えて下さいました。その中で、自分たちがやりたいものとか、食材的に使いやすいものなどを考慮して絞り込んだのが、現在販売されている4種類です。そうやって決まっていくうちに「まるで日本の丸干しが、世界を旅しているみたいだね」と、フードコーディネーターの方が言われて、そしたらプランナーの方も「旅する丸干し、いいじゃない」と。その話し合いのなかでそのままネーミングが決まり、ストーリーができていきました。

QUESTION12

発売後、鹿児島県の特産品コンクールで最高賞の県知事賞を受賞されました。

県の特産品コンクールは、鹿児島に帰ってきて間もないころ一度出品していて落選した経験があり、いつかは絶対に賞を獲ってやりたいという想いがありました。それから2年後にこの「旅する丸干し」で出品。最高賞を受賞しリベンジを果たしました。それをきっかけにマスコミにも広く取り上げていただいて、問合せも増えるようになり、最近では鹿児島の老舗茶舗とのコラボや、焼酎試飲会で普通の丸干しがふるまわれるようになったりと、他業種とのつながりも増え、丸干しを知っていただく機会も広がってきました。今までのようにただ「丸干しどうですか」じゃ響かなかったものが、「旅する丸干し」によって丸干しの魅力に気づいてもらえて、じゃあ本当の丸干しはどんな味なんだろうと興味を持たれ「丸干しって美味しいじゃない!」と言ってもらえるようなこともよくあります。「旅する丸干し」は、そこに気づいてもらうための商品として、狙い通りの役割を果たしてくれていると思います。

QUESTION13

一般的なオイルサーディンやアンチョビとは似て非なる「旅する丸干し」の魅力。ご自身ではどんなところだと感じていらっしゃいますか?

この商品のいちばんの魅力は、やはり創業昭和14年の老舗干物屋が作った、新しい干物商品であるということ。自社の持つ歴史や、丸干しが作られる風土は、この商品の根幹でありいちばんの魅力だと思います。
食べる感覚的な魅力で言えば、まず朝獲れのウルメイワシの丸干しを使っているので、苦みが少なく食べやすいこと。干し上げて作っている干物なので香ばしさがあり、生魚を使ったオイルサーディンやアンチョビと比べると生臭さがない。レトルト加工もしておらず、乾燥させ焼いて水分を飛ばすことで保存性を高めているので、レトルト特有の匂いもなく、丸干し本来の美味しさを楽しめることだと思います。

QUESTION14

おすすめの食べ方を教えてください。

ビールやワインとも相性が良く、パスタやサラダにも使えます。4種類の味があり、例えばドライトマト&ガーリック味の「南イタリア風」はパスタやカナッペに、オリーブ&ハーブ味の「プロヴァンス風」ならニース風サラダに、ボンタンエッセンスを加えた「阿久根プレーン」は梅茶漬けと合わせてなど、色んな楽しみ方ができます。4種類のなかでも自分のお気に入りは、ミックスビーンズ&カレー味の「マドラス風」。刻んでマヨネーズと混ぜ、それをふかしたじゃがいもに塗って食べるのが好きですね。

QUESTION15

鹿児島の好きなところを教えてください。

地元に帰ってきて、海のきれいさを再認識しています。それまではあって当たり前のものだったので良さに気づいてなかったのですが、一度東京に出て帰って来ると、阿久根の海ってこんなにきれいだったんだなと。それからはシュノーケリングなどをよく楽しむようになりました。けれどこんなきれいな海があるのに、地元は海を楽しむ環境が整っていないとも感じています。今、そんな地元の魅力に気づいてもらえるような取り組みもやっていきたくて、来年、阿久根市内にお店をオープンする計画を立てています。
3階建てのビルに販売所やカフェを備える計画で、旅の拠点、あるいは阿久根と他の地域との交流拠点にできればと。現在、販売所に並べる商品も開発中です。地元には海や丸干し以外にもまだまだたくさんの魅力があるので、それを発信していきたいと考えています。

QUESTION16

鹿児島ならではの好きなたべものは?

祖母が作ってくれていた鯛茶漬けですね。今は母がその味を受け継いでいます。阿久根は昔から鯛がよく取れる土地柄。知り合いの漁師に大きな鯛を頂けることもあって、それを祖母が捌き、刺身で食べるというよりは、みりんや甘い鹿児島の醤油とごまを合わせたタレに1~2日漬けこみ、それをごはんの上に載せて茶漬けで食べるんです。それもいつか商品化したいですね。

冨ケ原陽介

PROFILE

下園正博

昭和55年生まれ。老舗の干物屋が多く残る町・鹿児島県阿久根市に、昭和14年から構える水産物加工販売業・下園薩男商店の三代目。若者の干物離れを危惧し、干物の魅力を未来へ伝えるべく開発した「旅する丸干し」がヒットし注目を浴びる。丸干しに限らず、地域に残るものにひと手間加えて魅力を発信し、地元を活性化させる取り組みも始めている。